傾奇者モザイクKATSUの日記

恐れながら申し上げ候

りょうさんと棟梁の相席教室と孔雀の壁画

今日はりょうさんと棟梁の相席教室。そうね、ここ数ヶ月棟梁は調子を崩していたんだけれど、声の高さや張り、歩き方の歩幅や軽快さが違うんで、調子良いの?って質問をしたら、はいって。だよなぁ〜、判りやすい。こう言うのはとても大事で、     

その人の調子が判ると、その調子に合わせて、調子が良いなら難しい事にチャレンジしても、挫ける事無く進めるし、悪いなら考えるような場所を避けるべき。

しかも今日の調子がどうだか判らない状況で前持っての予約なんだから、来て見ないと判らないしね。

更に言えば、調子が良い棟梁がただバックを切って入れる・・・こんな単純な事をするのだから、進むに決まっているのね。

ただ調子が良いのなら、指導も変わって来るのね・・それならと、親子3代さん達の絵馬があるから、見て貰い誰が作ったか?

をその理由も言って貰う質問をしたのね。まぁ近々に来た人達はみんなやっているんだけれど。

それはとても見る目を養うには勉強になるのね。その時に何となく答えるのは禁止で、必ずこうだから・・・って、

自分なりの意見を言う練習であって、好みで答えるのも禁止。これは腕は一切関係無いし、作品を見る目を養えるのね。

だから当てる事が目的では無く、一体何処を見て判断したか?なのね。それに寄って自分に無い腕前や、自分にも出来る事を発見したり、比較を出来たりするのね。そもそもこうしたみんな同じ下地で・・・って

比較は、アトリエの生徒さんでは中々無い事で、しかも生徒さんの腕前での小物って言うのは、最高峰ならキウイの絵馬だから

高洲のサークルの人達しか、中々見られないから、こう言う機会はとても大事だと思うのね。すると、流石に調子の良い棟梁の目は正しく、お母さんはこれ・・・って。

しかもブログで良く見ているから、お母さんのタイルの切り方の癖まで見ていたのね。お母さんのパーツは、角が無くちょっと丸っぽいのね。そうなると、ママと小学生。所がここは思い込んだみたいで、

小学生は上手い・・・って事で、見間違えたのね。これが凄い事で、棟梁の腕があり

しっかりとした目を持っている人に見間違いをさせた小学生・・・って事になる。そこで彼女の大作を改めて見て貰うと、

上手く見えるんだけれど、ボンドが沢山付いている。つまり切る事は上手いけど、

ボンドの付け方が小学生なのね。だから、みんなに見せる時にキチンと落として見せたのね。すると、ママと見間違いをさせられる・・・いかにカットが上手くなったかって事なのね。

しかもどの人もみんな大作をしている人達なのだから、中々の腕前の人達にね。つまりボンドを落とし、同じ大きさでぺきぺきの柔らかいタイルの小物作品なら、

みんなに見劣りしない作品を作れる小学生なのね。そう見れば、とても刺激的な作品で、とても勉強になるはずなのね。

それを、ピンクを使っているから・・・女の子で、可愛く見えるから子供で・・・

と、色や見栄えで思い込むなんて事になると、見掛けで判断したり、思い込んだりしているって事になるのね。

目を養うって言うのは、目が向上すれば、その目で作るのだから、そうしたい・・・って腕の向上に繋がるのね。それは五感を鍛える話なのね。

だから味覚なら何か・・・って思える引っ掛かりを感じる事が出来ると、隠し味とか、舌触りなら触覚になるし、見た目なら

視覚、焼き方なら音で聴覚・・・と言った視覚だけに頼らない向上は腕だけとは限らないのね。

そこは常に感じるって五感の向上なのね。それを腕だけ練習しても、確かに上手くは見えるが、棟梁くらい自在に切れるなら、

大事なのは五感。いかに感じられるか?なのね。棟梁の指導はそれのみ。逆にりょうさんは、徹底的に切る。切る練習って感じで、何しろ思った形に切る。ただ例えば、

こう切る・・・って幅や大きさが決まっているようなパーツは、考える事無く切れるようにはなっている。ただ大きなスペースな場合に、そこをどうやって切る?って、

自分で考えないとならないパーツの時に、どうやって切ると良いか?って時に、悩んでしまうと手が止まってしまうから、

進まなくなる。進まなくなるのは嫌だから、何かを選択して進んでしまう。しかししばらく進んでしまった後に、何か変だな・・・

と感じながらも、後戻りをせずに進んで、ここは・・・って指摘すると、やっぱりかぁ・・・って。

要するに本人も気付いていたのに進んでしまう。つまり切る腕の問題もあるが、気付く・・・感じる事も大事なのね。

その時に、何か変って所までは来ているのね。何かが変って気付いてはいる。そこで立ち止まって、声を出して聞ける・・・

ここ。それが出来るようになると、少し垢抜けたやり取りになるのね。ただ何もかも考えずにやたらと呼び付けるって事になると、相席は出来ないのね。

それは個人レッスンなら出来るけれどね。ここのさじ加減も一緒な話で、自分が本当に考えて、立ち止まり、私はこう思っているんだけれど、どうですか?・・・

って場合、自分の意見ありきでの質問だから、間違っていれば是正となるが、何も考えずに尋ねるって事は、次もその次も

何も考えずに、ただ答えを聞いて進む事になるから、手っ取り早いのね。でもそれでは、考える癖が付かない。

例えば、腕として上手くなった・・・って事になったとする

・・・じゃ楽譜通りに弾ける。字を見て黒板の文字をノートに写せる。レシピ通りに料理が作れる。それで良いのならそれも良い。でももし、オリジナルの歌が作りたい。

作文を書かないとならない。創作料理が作りたい・・・となった時、考える癖を付けないと、言われた通りのみの対応しか出来ない事になる。それはただの職人。

確かにそれはそれで凄い事でもあるが、それでは、さっきの親子3代の人達のように、同じ下地で自由に・・・って言う場合、サンプルが欲しい人になってしまうのね。

考えるって事も腕前と同じように、常に練習しないと、腕が向上すればするほど、見劣りする事になるのね。だからたわいも無い話でも良いから、常に考えてこう思うって事を、口にするのも練習なのね。

例えば好きな歌。何で好き?何処が好き?どのフレーズ?何処の歌詞?・・・何でも良いのね。自分が引っ掛かった部分、そんな所が趣味趣向なのね。それを口に出来無いと

何をどうしたいのか?先生に伝わらないし、これかな?これかな?と提案しても、

正解が出るまで、両者共に疲れてしまう。だから、オリジナルを作るやり取りが必要になるのね。

それを持って、オリジナルを作る時に、こんなふうに見えるように作りたいんだけど、これでそんな風に見えますか?・・・ってやり取りがスマートになって行くのね。

いずれにしても、この程度の話は2人は出来るようにはなっているから、ビックリする話では無いのね。ただ3人の絵馬は具体的に話すには参考作品として良い勉強になったのね。

そんな後は、孔雀の壁画。

外は1cmタイルの4分の1弱の大きさを台形に切り、中身をガラスタイル。またこんな模様の繰り返し。